2008-10-15 01:00 | カテゴリ:読書
 「日本人の生命を守った男-GHQサムス准将の闘い」(二至村セイ(くさかんむりに青))

 これも図書館から借りた本で、期限が切れているので急いで感想を書く。

 占領時の日本でGHQが行った膨大な文書検閲から、GHQの保健・衛生に関する占領政策を、マッカーサーの腹心の部下だったサムスという人物を中心にして浮き彫りにしている。

 具体的には、戦後の日本医学、学校給食、原爆症、感染症などについて、多くの事例と文献資料、インタビューなどを元に構成されている。

 学校給食についてはサムスが中心になって公衆衛生という観点から、ものすごい勢いで作られたこと。学校給食にララ物資を使うことは最初から決められていたわけではなく、物資が船で日本に向かっている最中にサムスがララ物資の責任者にかけあい、日本の役人にかけあいして急ぎ学校給食に流用したということは意外だった。
 「米国で余った古い脱脂粉乳や小麦粉を日本に押しつけている」というような風評はサムスによって検閲された。

 アメリカの医学雑誌の翻訳や医療機器について、日本がアメリカに著作料や特許料を支払うことについて目をつぶっていたのもサムスだったという。
 アメリカの医療器具・機器の展示会を日本で開いたときのサムスは、これらをコピーして製作し、日本の医療のために役立てて欲しいと言ったという。
 しかしさすがに当時最新だったストレプトマイシンの効果に関する論文の翻訳についてはアメリカ本国からクレームが付き、5ヶ月遅れで出版されたという。

 もう一つ、興味深かったのはサムスと、武見太郎に代表される日本の医学界との確執である。医療と薬とをきちんと分けるように勧告したGHQだったが、サムスがマッカーサーと共に日本を去ったためにこれはうやむやになってしまった。

 ここで、この本に描かれるアメリカの占領政策と古代ローマの占領政策を比較して考えると、やはり共通点が多いなと思う。

 本書では繰り返しマッカーサーが大統領になる資格が十分にあったことを指摘している。古代ローマで凱旋将軍が執政官になったように、アメリカでは凱旋将軍が大統領になることを多くの民衆が望んでいた。そのために、「西方」を占領しているマッカーサーは、「東方」ドイツを占領しているアメリカ軍の占領政策には負けていられなかった。
 ローマ軍が橋や水道という社会基盤を整備し、寛容の精神をもって占領政策にあたったのと同じく、アメリカ軍は社会基盤整備の一環として寛容の精神をもって医療や公衆衛生の施策を実行していたということが、この著作からは十分に伝わってくる。

 してみると、ローマ時代の占領政策としての医療はどうだったのだろうか。。。ローマ時代の医療というと、アスクレピオス医師団が思い浮かぶ。アスクレピオスはギリシアの医療神で、各所に神殿を置き、治療にあたったという。
 そういえば、カミさんがトルコに旅行したときの写真の中には、アスクレピオス神殿の遺跡のものがあった。当時のトルコはギリシア・ローマからすれば辺境の地だったはずだが、当時から進んだ医療というのは占領政策の一環として利用されてきたのかもしれない。

※MIXI日記から転載
2008-10-13 23:07 | カテゴリ:読書
 先日、近くの図書館へ行ったとき、ふと目に止まり、借りてみた。じつは返却期限を過ぎてしまっているので、メモがわりに書き留めておくことにする。

 「ヨブへの答え」というC.G.ユングの著作があって、発刊された1952年当時は論議を呼んだらしい。日本でも2つの翻訳が出ている。

 ということで私も、学生時代には何度も繰り返し読んだのだけれど、クリスチャンではないので、クリスチャンとしての解釈というのがどういうものなのか、特に、異端ではない解釈というのがどういうものなのかを知りたいと思っていた。

 この本を書いた北森嘉蔵という方は、プロテスタントの牧師さんで、長く東京神学大学の教授をされてきたという。ならば、現在のプロテスタントの立場から見たヨブ記が分かるのではないか、と思ったのだった。

 この本は、題名の通り、北森さんが講話として語られたものを活字にしている。そのため、普通の人々に語りかけるような調子になっていてたいへん読みやすい。語りの中の事例もたいへん人間的で、私のような不信心者が読んでも、長年苦労されて宣教活動されてきたのだろうな、ということが容易に想像できるようなものだった。

 最も興味深かった点は、ヨブ記の内容というのは、最後に向かって一直線の坂のように盛り上がっていくのではなく、実は中盤に最大の盛り上がりがあり、最後は坂を下っていくように盛り下がっていく、と解釈したほうが良いのではないか、ということだった。これによって解釈も異なると。北森さんはこれを「絶壁型」と「富士山型」の違いとしている。
 富士山の絶頂は17章から19章。ちょうどその19章には「わたしは知る。わたしをあがなう者は生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」という文言がある。

 神の2面性については、ユングも北森さんも共に指摘しているところ。ただし、ユングの著作のほうは悪について突っ込んだ記述をしていて、ある意味下世話な印象を受けるけれど、北森さんのほうは「無情な神」というていどの解釈になっている。 また、発達論的な観点から神の変容を説くのはユングの独自の考え方で、北森さんの著作にはもちろん出てこない。

 北森さんは、「ヨブ記」は色々な民話が合体して出来た物語なのではないかということを指摘する。ヨブ記の最後が比較的ハッピーエンドなのは、民話の特徴ではないかと。だからむしろ中盤のヨブの矛盾をはらんだぐちゃぐちゃの葛藤にこそヨブ記の真価があるということなのだろうと思う。

※MIXI日記より転載